目と鼻の先

主な参考資料:Wikipedia内「京阪梅田線

京阪電鉄は当初路面電車規格で建設されたためカーブが多く高速運転が難しいというのはテツの方ならたいてい知っているであろう。会社としてもかなり古い時代に改善案を考えており、淀川西岸経由で野江―淀間をショートカットする高速新線を計画した。しかし政府から当時の天満橋ターミナルのキャパ不足を心配され、大阪方ターミナルは別に作るよう指導された。しかもその後どういうわけか京都方も別ターミナルになって既存路線とつながらなくなり、最終的には阪急京都線という全く別の路線になってしまった。

さて政府の指導で大阪ターミナルを作ろうとした際、候補として最初に目をつけたのは鉄道省城東線(大阪環状線全通前の東半分)の高架化工事だった。さっそく鉄道省と交渉して、地上線に隣接して高架線を建設した後の旧線をそっくり譲ってもらう約束をした。現在阪急上新庄駅の南で淡路に向けてカーブしているが、本来はここをカーブせずに城東線とぶつかるまで直進、その後城東線に平行して梅田に乗り入れる計画だった。しかしこの計画は大阪市に話を通さなかったため政治面で荒れる原因になったが、鉄道省も関東大震災後の復興で関西にカネをまわせる状態ではなくなり高架化工事は進まなくなった。

別のターミナルを探す必要に迫られた京阪がとった行動は、阪急千里線の前身・北大阪電気鉄道のM&Aだった。昔の技術では小私鉄の資金で淀川に橋を作るのが難しかったため自力での大阪市街乗り入れを保留して十三での阪急接続になっていた北大阪電気鉄道だったが、京阪は北大阪電気鉄道が免許を有していた淡路―天六間の建設にとりかかった。加えて淡路―上新庄間を建設し、ようやく天神橋―淡路―上新庄―京都四条大宮間に新京阪鉄道が開業した。当初は別会社だったが、当時の沿線は過疎地帯だったため経営が苦しくすぐに京阪本社に合併された。

注:
「天神橋」駅は現在の「天神橋筋六丁目」駅に相当し、2010年に解体された阪急天六ビル内にあった。実際の天神橋はもっと南(堺筋線北浜駅付近)にある。

その後も京阪は梅田乗り入れの計画を捨てず、天神橋ターミナルから梅田に直進(地下鉄谷町線と同ルート)する計画に変更したが、戦時中に政府の指示で阪急と京阪が合併したため新京阪線は十三経由での梅田乗り入れが実現し建設の必要がなくなった。戦後阪急と京阪が分離する際も線路がつながっている事実が重視されたのか新京阪線は阪急に帰属することになり阪急京都線となった。

以上は京阪梅田線についての文献において、一本の文章で表したときのあらすじである。しかし付随資料などを見ながら考えると腑に落ちない点がかなり出てくる。

当初鉄道省に出願した時の路線は野江―吹田―山崎―淀間の本線(両端で現在の京阪線に乗り入れる)と、山崎ー四条大宮間の京都支線(現在の阪急線)だった。史実では鉄道省が特許を交付する際の付帯条件として大阪のターミナルを別に設けるよう指導しているが、京阪としては「野江―大阪のどこか」の支線を建設して表向きのターミナルとして実際には天満橋(当時の京阪のターミナル、淀屋橋は戦後の開業)―野江―高速新線―淀―三条間に特急を走らせればよいことである。表向きのターミナルは史実同様天神橋でもよいし、野江から梅田に乗り入れる計画も存在した。高速新線の当初の目的であった「京阪本来の客である天満橋―鴨川東岸の乗客への速達サービス」という目的がいつの間にか忘れられ、野江―吹田間と山崎―淀間が建設されなかったのか、そのへんの経緯は入手容易な資料にはない。現在の京阪線に接続していれば戦後阪急に新京阪線を奪われなかったものを・・・

その後城東線の高架化工事が具体化するにつれ、上新庄―桜ノ宮(JR駅東側に「京阪電鉄乗越橋」という名のガードが現存)―梅田(現在のHEPファイブの土地)の新京阪線のほか、京阪本線の千林駅から分岐して城東線の北側を通り天神橋に至る路線も計画された。しかしこの京阪本線からの分岐が謎である。途中で新京阪と交差するからここに連絡線を設けて梅田に乗り入れるというのはわかる。しかしなぜそんなに立地のよくない天神橋にわざわざ乗り入れる?

さすがにこの建設計画は無駄が多いと思ったのか、建設路線長を短くなるよう計画が変更される。新京阪は前述のように天神橋から梅田に直行、京阪本線は京橋から城東線に平行ルートで梅田に乗り入れる計画になる。しかし京阪の経営難によりこの計画も実行できなくなる。史料では「京橋駅の設置で城東線乗換えが容易になり梅田乗り入れの必要性が低下した。」と記述されるが、新京阪からはあいかわらず不便なままでこの説明では納得できない。そもそも都島区や旭区に延々とレールを敷く「計画を立てる」だけの資本があるなら、せめて天神橋―梅田間だけでも建設できなかったのだろうか?

子会社として新京阪だけでなく超特急伝説で知られる阪和電鉄(現JR阪和線)を作り、さらには名古屋に進出して大帝国を作ろうとしていた京阪グループだが昭和初期の大恐慌で挫折、さらに戦争のゴタゴタで新京阪と阪和電鉄まで失ってしまった。一方滋賀県でも子会社にした江若鉄道が湖西線建設のため廃止、京津線も地下鉄のため分断され大阪方面から琵琶湖アクセスの商品価値が減少している。さらに頼みの綱の中之島線も不調で京阪の凋落は止まらない。

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